柴田勝家の正しい家紋 (世間で出回っているのは間違いばかり)

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 はてなブログの方は,久しぶりの更新。ヤフーブログの方には詳しく書いてあるが,プライベートで色々なことがあって,こちらの方は手つかずのままだった。

 執筆中の拙著『御旗本・・・・』は,少しずつではあるが執筆中である。

 

 今回は,機械音痴の私が,やっと写真をパソコンのブログに掲載できるようになったので,まず手始めに,ヤフーブログの方では紹介済みの,「柴田勝家の正しい家紋」の写真を紹介する。ヤフーの方では,写真が小さすぎたからである。

 

 上記の写真は,愛知県豊川市(旧宝飯郡御津町)にお住いの,柴田さん方に伝存した古写真である。全国に「柴田勝家末裔」を名乗る家は多いが,この柴田さん方こそ,実は正真正銘の柴田勝家公の嫡流の末裔である。

 すでに前述のとおり,越前太守柴田修理亮(実名勝家)公は,天正十一年越前・北庄城で室小谷之方(お市)樣とともに自害する。その後,勝家公の養子たちは,德川氏に仕えて幕臣になったり(当家もこれです),大名家の家臣となったりして,柴田家の家名を存続した。

 その中で,德川將軍家の御直參御旗本家として,家録(禄)三、〇二四石を拝領し,勝家公流の武家諸家の中では「宗家」の立場にあったのが,他ならぬ,現豊川市在住の柴田さんのご先祖なのである。拙著で書き進めている,旗本本宿柴田氏である。

 「なぜ,江戸の御旗本の末裔が愛知県にいるの?。」という疑問を持たれた方は多いだろう。その理由は,瓦解ののち,東京で一士族として暮らしていた元旗本本宿柴田氏家族は,おそらく生活が行き詰まり,旧采地であった三河国宝飯郡に,かつての家臣で土地の素封家の援助で,明治二〇年代に東京から移住したからである。

 柴田さん方には,一般に大変数が少なく貴重な,旗本家の江戸屋敷側の史料が,伝存した。

 上記の古写真は,それらの史料とともに残されていた,明治時代も早い時期に撮影されたもので,ガラス板に焼き付けられている。

 写真に写っている「五」の文字が書かれた旗は,御使番の旗。右下に家紋が見える。

また,挟箱,兜が見える。これは,言うまでもなく,勝家公嫡流の旗本本宿柴田氏が旧幕時代に使用したものである。

 このうち、最も正確な家紋を描きやすい,御使番の旗に描かれた家紋が,旗本本宿柴田氏の,つまりは柴田勝家公の「正確な家紋」に間違いないのである。

 あらためて,一般に流布している勝家公の家紋との違いを確認すると,

1、上の雁金は,嘴を開いている。

2、上の雁金は,下の雁金よりも細長い。

 の2点である。ヤフーブログに載せた時より大きな写真になっているはずなので,ご確認いただきたい。

 ちなみに当家の場合は,外側の輪が二重になるだけで,中は上記の1、2、と全く同じです。

 

 断言したい。世間に出回っている勝家公の家紋は,100パーセント間違っている。

『小石川水道橋外・參河國加茂郡大嶋陣屋家録七、〇〇〇石旗本石川氏,喰違外御堀端・參河国額田郡本宿陣屋家録三、〇二四石旗本柴田氏を中心に』の「はじめに」の概略(五)

鶴田知大

神崎彰利

のように,他者の論考をなんの断りも無く,出典も記さずに「盗作」したり,著書の中で数え上げたら日が暮れそうな間違いだらけの辞典を書きながら「自分は旗本研究の第一人者だ。」といわんばかりのえばり腐ったやからについては,私は,吉川弘文館から出す予定の本書の中で,すべて実名・敬称削除で書くことにしている。

 私は,今では専門の学者ではないし,一郷土史研究家であり,年商数千万の自営業者でもあって,専門の研究家の「独特の世界」には全く関係がないからである。

 なお,こうして先日,パソコンのインターネットを繋いだこともあり,ブログ等で発信することも少しずつ覚えていきたい(逆に言うと,ほんの数日前まで,私の私宅の部屋には,インターネットすらなかった。私は極度の機械オンチ・機械ギライである)。

 一方で,御旗本についての著作の中で,私がつねに傍らにおいているものは,次の通りである。

◎新見吉治氏著『旗本』

 新見氏は,尾張藩士の末裔。ドイツにおいて史学を勉強され,百歳の生涯の最後の時期まで論文・著書を書き続けた。

 新見氏は,史学界が急速に左傾化した時期に,ご著書・論文の中でそれを堂々と批判された。たとえば江戸時代を「純封建社会」と捉える左翼研究者どもに,「日本に封建制度なし」と断言された。

 私も,江戸時代の領知(知行)は,西洋史でいうところのfeadalism(封建制)とは,全く違うと思っている。私は自らの小論に英題をつけるとき,estate(大土地)を使用した。その理由は,feadalismには,農奴が労働地代を領主に納めるという用件があり,

日本の江戸時代年貢は,時代が下るにつれて,ほぼ金・銀納制になるからである。

◎小川恭一氏著『江戸の旗本辞典』

 講談社文庫の一冊ながら,下手な大辞典よりも性格・簡潔な説明があり,便利な本である。

 小川氏は,サラリーマン経験があり,そのことが「江戸時代のサラリーマン」である御旗本・御家人の研究に影響しているのかもしれない。

◎若林敦之氏著『旗本領の研究』

 私が早大生時代に,初めて手にした御旗本に関する専門書。多くの御旗本研究が農村史料から進められるのと同様,若林氏の同著も同じである。

 しかし,若林氏の研究には,左傾化の痕跡が無い。たとえば農民から陣屋詰御代官に昇格した人物を,きちんと「武士身分になった」と記述されている。

 また,若林氏は,御旗本家の領知のことを「采地」と書かれている。『寬政譜』では,大名家・御旗本家のいずれの領知も「采地」と書かれているが,行政文書では,御旗本家の場合は「知行所」と書かれており(大身の家の場合例外もあり),研究論文ではこちらが一般に使用される。

 しかし,これはご存知の方はほとんどおられないだろうが,明治元年,新政府から「本領安堵」をうけた元旗本家は,その領知を「采地」と呼ばれた。

 もう一冊は,英国政治史から。

水谷三公氏著『英国貴族と近代 持続する統治1640-1880』

  世界で始めて議会制民主主義を醸成させた英国。その主人公は,左派の歴史家なら「ブルジョワ」というであろうが,水谷氏の著書では,今日でも残っている貴族階級がその政治を作り出したとする。時代が江戸時代とほぼ重なることもあって,(無意味であるとは知りつつも)比較・検討してしまう。水谷氏の江戸時代に関する諸稿も,英国史のご著書同様,英国風ウィットにとんだ文章で,難解ではあるが魅了される。

  なお,私は,英国英語(RP発音,英国人口の約3%しか話さないという,上流階級の発音・イントネーションではあるが)をほぼネイティヴなみに話すことができ,論文なども原書で読むことが出来る。これも,英語が苦手な人が多い日本史学者にたいする強みであると思っている。

他にも山ほどありますが,今日はこの辺で。

『御旗本 小石川水道橋外・參河国加茂郡大嶋陣屋家禄七、〇〇〇石旗本石川氏,喰違外御堀端・參河國額田郡本宿陣屋家禄三〇二四石旗本柴田氏を中心に』の「はじめに」について(4)

 さて,今神崎氏らの編著書の致命的な欠陥について紹介した。困ったことは,これらの著者が,今は自分らが御旗本研究の世界では第一人者づらをしていることである。

 あれだけ間違いだらけの本を書いておいて,一度として謝罪・訂正をしているだろうか。このままだと,間違いの再生産が今後も続いていってしまう。

 同じようなことが,史料館などの研究機関や,都道府県史・市町村史の編纂の世界でもいえる。

 

 また、私(柴田)も,大阪府のある市の本文編近世の執筆をさせていただいたことがある。こうした自治体史の編纂事業は,実は貴重な史料・文化財の消失と,税の無駄遣いの舞台である。

 私も参加させていただいたある市の場合,途中で近世編の総責任者がなくなったため,前段階がいかほど進んでいたのか,全く連絡も出来ない状態で佐々木潤之介博士を中心とする私たちが担当することになった。

 残されていたのは膨大な撮影された史料の冊子。数億円の市民の税金が費やされたという。

 しかし,その冊子,本文編の執筆にはほとんど役にはたたなかった。なぜなら,私たちは,もう一度原史料から調査を始めたからである。

 冊子のうち,約300冊は今でも私の家の倉庫に眠っている。返せともなんとも言ってこない。もう市史編纂室が解散したのだから,しかたないという。私も困っている。

 そして,その市史自体,全然売れないとのことであった。

 そりゃ売れないよなぁ。一般の歴史好きが読むような本じゃないのだから。これらはどこの自治体でも同じである。

 そして,この市では,編纂室の解散により,借りていた大量の史料を所有者へ返したのだが,どこの家も新築・改築中などのために,廃棄したというのである。

 写真にしたものは残ったはずだが,いまどこにあるのだろう。

 しかし,市史編纂事業がなければ,各家の先祖代々の史料として数百年受け継がれていった可能性が高い。やはり,自治体史編纂事業は,「史料消滅の契機」であると言わざるを得ない。

 

 たとえば豊田市のある地域の村の史料は,左翼史学者がより好みそうな史料が,目録にはあるのに,現物はみごとに抜かれている。今では行方不明。これは,犯人は,おおむね見当がつく。この村の史料を使用したのは,限られた人物であるからである。

斉藤純である。

斉藤純は,『豊田市史』を,左翼史観一色にしてめちゃくちゃにしたやからである。市民のための市史を,自分の左翼的史観で塗り固めて良いはずがない。

 

 

 私は,必要な史料は,可能な限り必ず現物を見るようにしている。翻刻の間違いはもちろんだが,写真やフィルムになっていると,色や紙の質,大きさがイメージできないからである。

 以下,史料保存機関および人名は,実名で書く。

 で,そのような時,私は何の連絡もいれずに博物館や史料館,寺院などを直接訪ねる。その理由は,それらの機関で,どのように史料を取り扱っているか知りたいがためである。

 面白いことに,私の場合,九割以上の確立で,資料館・役所・旧家・公民館そして寺院など,いつ行ってもみせてもらえる。もっとも,寺院については、私(柴田)が臨濟宗の受戒者(靈海院殿鑑照知憲居士)であることと無関係ではあるまい。

 いつ誰が来ても大丈夫なようにきちっと整理整頓されているところもあるが,中には「未整理」状態で,一応作ってある目録にある史料が無い,なんてこともある。約25年前の愛知県豊田市郷土史料館がそうであった。しかし,当時の私はまだ早大生の時代であるが,閲覧はさせてもらえた。

 豊田市足助資料館は,いつでも自由に収蔵庫に入って,史料を出して見たりコピーをしたりすることが出来る。史料のコピーは,史料を傷めるなどということを言う人がいるが,世界に誇る「和紙」と「墨」が,たった一枚コピーしただけでで痛むことなんてあるはずが無い。今ではデジカメがあるから,さらに楽になった。

 三重県亀山市亀山市博物館には,伊勢龜山藩御家老加藤家文書が約13,000点残されている。ちなみに,伊勢龜山藩そして,亀山市は,新編の市史を他の市町村に先駆けて,デジタル版で刊行し完成した。これは,これからの時代には,必要なことであろう。

 この亀山市博物館も,約25年前から当日閲覧が可能であった。学芸員の小林さんも,最初にお会いした頃から,本当に良くして下さる。やはり,実物の史料を手にとって調べることは,デジタルの画面を見ながらよりも,はるかに楽しい。

 福井市歴史博物館は酷かった。突然訪ねた日は仕方なかったとしても,豊川市在住の元旗本本宿柴田氏末裔の柴田家が柴田勝家公の正真正銘の直系子孫であることを史料・写真を添えて送付するも,なしのつぶて。

 私の経験では,学芸員および市の文化財担当の職員が,一番態度が悪い。

 たとえば,わが岡崎市の場合,このようなことがあった。

鶴田知大の,論文「盗作」事件である。

 現在は合併により岡崎市になっている,旧額田郡額田町に旗本保久(ほっきゅう)石川氏(家禄四、〇〇〇石)の保久陣屋が置かれていた。ちなみに本書の中心となる旗本大嶋石川氏とは同族(伊勢龜山藩分家)の家である。

 筆者(柴田)は,豊田市郷土史研究会の『研究紀要』に,保久陣屋史の概観について投稿した。このときの原稿が,刊行前に岡崎市美術博物館に流れ,同博物館のアルバイトで愛知大学の院生であった鶴田知大(つるたともひろ)が,『岡崎市史研究』への自分の原稿に,一部を「盗作」したのである。実際に見ていただければわかるが,ある部分の記述が私(柴田)のものと,鶴田知大のものがほぼ全く同じ。私は,かつて『額田町史』の執筆をされた宇佐美正子氏に問い合わせ,鶴田知大も,私(柴田)の原稿を見ていたを認めた。

 岡崎市の方では,岡崎市美術博物館の堀江氏と鶴田知大が我が家に来て,堀江氏からは丁寧な言葉をいただいたが,鶴田知大は自分の主張を述べるだけで,全く謝罪の言葉はなかった。

 このような行為は,絶対に許されてはならない。

 「盗作」鶴田知大よ、愛知大学レベルの偏差値で,偏差値70の早稲田大学大学院卒の私(柴田)に反抗するとは,みんな笑っているぞ。

 そういえば,宇佐美正子氏,『額田町史』の中で,保久陣屋詰家臣のことを「国元御用人」と書いているが,私は元史料の中でこんな言葉を見たことが無い。これを宇佐美氏に尋ねると「造語」とのこと。ちなみに明治元年の陣屋詰筆頭家臣は「御用人役御代官取締兼帯」が正しい。

 宇佐美氏のやったことも,歴史の捏造・誤りの再生産にほかならない。

 

 地方自治体の文化財・歴史関係の職員のみなさん,あなたがたは国民の血税でいきている身分。もう少しそのことを自覚していただきたい。

 

旗本 or 御旗本? 『御旗本 小石川水道橋外・參河國加茂郡大嶋陣屋家禄七、〇〇〇石旗本石川氏,喰違外御堀端・參河國額田郡本宿陣屋家禄三、〇二四石旗本柴田氏を中心に』の「はじめに」の概略(3)

 『御旗本』というタイトルからもお気づきの方もおられるであろうが,本書では,役職名や人名・地名等については,当時の史料中で使用されていた語句を用い,字体については,ワープロの機能が許す限り正字(旧字)体を用いている。英文についてはOxford Dictionaryが採用する英国標準綴りを使用している。

 よって,旗本大嶋石川氏の歴代主人も何名かが就任した大番頭は,「大御番頭」となり,旗本本宿柴田氏主人も就任した書院番頭は,「御書院番頭」と記述されることになる。

 左翼的史観の近世史学者なら,「御」をつけるのは德川將軍家に対して敬意を表しており「公平な歴史観」ではないと主張されるであろう。

 そうであろうか。

 江戸時代とは,德川將軍家が,頂点に政治的頂点にたった約3世紀である。

 同時代の,たとえば英国,いわゆるピューリタン革命が起き,その後の歴史を見ても,今でも続く二代政党制の成立には,もうしばらく時間がかかる。

 大陸側では,フランス,ドイツ,そして当時は大帝国だったハプスブルクオーストリアロシア帝国など,頻繁に戦争をしていた。

 よって,日本の江戸時代とは,世界に類を見ない,"パックス・トクガワーナ"という,世界に誇るべき歴史であると思う。

 むしろ,「御旗本」の「御」は,絶対つけるべきであると思う。

 

 また,人名については,各章の初出の場合には,判明する限り通称・実名をしっかりと書くようにしている。当時の同時代史料では,名前は通称・受領名・官名で書かれる。たとえば柴田勝家の場合,当時の同時代史料中では「柴田勝家」と書かれることはほとんど無い。柴田勝家は朝廷から,正式に從五位上修理亮の官位に叙任されていたから,資料中では「柴田修理亮」と書かれる。一方,柴田勝家の子孫にも,同じ修理亮に叙任された人がいるから,これでは混乱をまねく。よって本書では,「柴田修理亮(実名勝家)」と,各章初出では表記し,以後は「柴田修理亮勝家」と表記する。

 

 このように実名(諱)は,上級武士だけがもっていたと思われるかもしれないが,実際には一般の武士たち,さらには農村の庄屋層でも実際にはもっていた。本書では実印の印影などから判明する限り,各階層の人物の実名も表記している。

 その理由は,江戸時代には,同じ「通称」を代々名乗っていたとが多いので,はっきり言ってその家のご先祖のどなたかが,特定できない場合がある。その際、実印の印影を見れば,判読できれば実名を確定できます。

 

 また、以前に書かれた方の刊行本や論文を拝読すると,個人名・地名等の間違いは,ものすごい多さである。神埼彰利氏らの仕事があり(書名は忘れました,あまりにも役に立たないので。),御旗本家の采地の村名まで記載されている,これは便利だ、と思われるかもしれませんが,とんでもない。たとえば私が調べた旗本則定(のりさだ)鈴木氏(家禄一、〇〇〇石,)の參河國の采地700石九か村(上總國に300石),この九か村のうち,半分以上の村についての説明が完全に,間違っている。たとえば參河國加茂郡丹波村(現豊田市二タ宮町)の采地が,尾張丹波村と,全くおかしなことが書いてある。

 そもそも尾張なら,誰でも知っている知識として,尾張大納言家の領分である。

なんでこんな本作ったのであろうか?。

 

 神崎氏のこの本は,間違いが多すぎてと参考資料として使えるようなしろものではない。

 

 私が第一次史料,同時代の役名,実名などにこだわるのは,もし私の書いた文章に間違いがあったのならば,その間違いを見つけていただきたいからである。だから,情報は出来る限り詳細に書く,という方針で書いている。

 

『御旗本 小石川水道橋外・參河國加茂郡大嶋陣屋家禄七、〇〇〇石旗本石川氏,喰違外御堀端・參河國額田郡本宿陣屋家禄三、〇二四石旗本柴田氏を中心に(仮題)』の「はじめに」の概略(2)

 旗本大嶋石川氏,旗本本宿柴田氏について,他の一般的な多くの旗本家と違い,私自身が直系子孫の方を存じ上げている,ということは前述しました。ところで,この両旗本家については,もう一つ重大な共通点があります。

 それは,両家とも「高の人」(家禄三千石以上)の大身旗本であり,石川氏はいわゆる「參河以来」,柴田氏は戦国武将の嫡流という家柄でありながら,これまで刊行された書籍,あるいはネット上のサイトなどで,「正確な家紋」が掲載されたことが全く無い,という点です。私がこれまで見てきた限り,これらの両家の「正確な家紋」を掲載しているものは一つもありません。

 これも,「旗本知行論」や村の歴史をやっている方にはどうでもよいことなのかもしれませんが,「柳營学」のほうからすると,「正確な家紋」に訂正する必要があります。なぜなら,江戸時代には,家紋というものが今とは比べ物にならないほど重要なものであったからです。

 前述しましたが,柴田勝家の家紋はお土産やさんなんかにも売っていますが,すべて間違っています。

 旗本大嶋石川氏の正紋は,『寬政譜』によれば「二重輪篠龍膽」(にじゅうわささりんどう)です。直系子孫の岐阜県の石川様方では「いしかわりんどう」と呼んでいるそうですが,現当主石川裕医学博士の言われるように,一般に知られている「篠竜胆」のように花びらの先が尖っておらず,丸まった形をしています。そして,花の真ん中には小さな〇があります。これに内側に細い輪,外側に太い輪が描かれています。菩提寺であった法華宗大久寺(現在は田端に移転)に歴代当主の2メートル以上はあろうかという墓碑が並んでいますが,ここに刻まれた家紋は,まさにそのようなデザインとなっており,「正確な家紋」ということができます。

 旗本本宿柴田氏の家紋については,すでに前述です。

 実は上記の二家に限らず,旗本家の家紋には武功などによりその家だけに許されたものが多く,『旗本人名事典』などに掲載されたものは間違っていることが非常に多いのです。たとえば三河には,鈴木姓の旗本の采地が四家あったのですが,どの家も正紋は「抱き稲」ですが,各家ごとに稲の葉の折れ方が違うのですが,辞典類・サイト等では間違ったままです。

岡崎地方史研究会・豊田市郷土史研究会・早稲田大学日本史攷究会・・・・筆者が寄稿した研究会

岡崎地方史研究会

 ここで,これまでに,私(柴田)が書いたものを寄稿してきた研究会について紹介しておきたいと思います。

①岡崎地方史研究会 おかざきちほうしけんきゅうかい・・事務局,岡崎美術博物館内

 岡崎市高隆寺町字峠1 電話0564-28-5000(代表)

  岡崎地方史研究会は,三河史談会を前身として,昭和二十年(1945)に発足,その機関紙『研究紀要』は,平成二十八年度で第45号となる,たいへん長い歴史のある郷土史研究会です。

 私,柴田知憲は,同会の歴史部2部の幹事を仰せつかっております。

 『研究紀要』には,一地方史研究会のものとしては学術的かつ高度な論文もこれまで多数掲載されてきました。特に大学などのアカデミズムの世界で,1960年代以降~「東の崩壊」,「マルクスの死が」明瞭になった1990年代初頭の時期の掲載論文を見ても,史観偏向はほとんど見られないです。私(柴田)私見ですが,このような役割を果たしつづけてきた各地の郷土史研究会の『研究紀要』の類は,今なおふりかえる価値が十分にあると考えています。

 歴史とは何か。私は,ご自分の関心のあることを研究すれば良いと思います。

 ただ,「歴史観」めいたものは,もっておいた方が良いと思います。

 かつて,「歴史学」=唯物・発展史観マルクス主義でした。特に大学(アカデミズム)の世界では。私くらいがそ最後の世代じゃないでしょうか。

 つまりユダヤプロイセンマルクスの描いた図式,

 人間社会は一部の支配階級と大多数の被支配階級(生産者)の階級闘争であり,「革命」を経て、

 古代奴隷制→封建制→資本主義→社会主義共産主義

 そして,たとえば,「明治維新」は,封建制から資本主義への「ブルジョワ革命」なのかあるいはその前段階なのかといった,今日から見たらきわめて不毛で意味の無い論争が繰り広げられていたのです。

 

 「歴史とは,いくつかの偶然の政治の積み重ねの結果である。」

 

 私はそのような「歴史観」を,私はもっております。

 

 話が難しくなりました。

 郷土史研究会ですから,何も難しくは考えずに,気楽に史跡めぐりなどの行事へのご参加・『研究紀要』や機関誌「地方史研究会便り」への記事の投稿など,大歓迎であります。

 特にお若い方,私は全国約300城下町の9割以上の町へは行っていますが,各地で若い女の子の三人づれなどを見かけますし,若い男性の方も各地で見かけます。女男を問わず,たとえば新撰組関連の事柄にたいへん興味がおありである方,多いですよね。近藤勇首塚岡崎市にある(否定説もあり。わたしもどちらかというと否定派なのですが)こと,ご存知ですか?。

 また,德川家康公をはじめとする三河武士や戦国時代に関心のある方は,大変多いとお見受けします。ゲームの影響もあるでしょうかね。ちなみに私の先祖も「信長の野望」に出てきますよ。岡崎周辺は,その三河武士たちのふるさとであり,それはもう多数の史跡があります。そして「えっ,本多平八郞忠勝って,こんなちっぽけな村で生まれたの。」みたいなのが多いのです。

 本会に入会すれば,史跡めぐりなどで,人生の大先輩であるご年配の方から,本当に詳しいお話を聞くことができます。じつは,全会員の中で,私が最年少(といっても45歳)だと思います。また,私は禅宗(臨濟宗東福寺派)の受戒者(正式に佛弟子として戒を授けられ,〇〇院殿□□△△居士の戒名をもつ)でもあり,郷土史の研究会だけでなく,お寺のご住職のご年配の方に多く会う機会があります。

 人生の大先輩とお話をするとき,いつも「いい話が聞けたな。」と思うのです。なぜか?。当たり前ですが,自分より永く生きてこられた方のお話には,若輩者にはない重みがあるからです。

 そういえば先日,私が禅宗寺院に参禅しましたところ,お若い数人組の方たちが参加しておりました。

 本物の日本文化を知る。今の若者の多くにも共通することかなぁ,と感じました。

 

 老若男女は問いません。私たちと一緒に,岡崎周辺の歴史・文化に触れてみませんか。年会費は2,000円です。入会希望の方は,上記事務局か私柴田まで。

  

  

かりがね 刊 『御旗本 小石川水道橋外・參河國加茂郡大嶋陣屋家禄七、〇〇〇石旗本石川氏,喰違外御堀端・參河國額田郡本宿陣屋家禄三、〇二四石旗本柴田氏を中心に(仮題)』,「はじめに(序)」の要点。(1)

 現在執筆中の上記書籍は,前述の通り,「旗本知行論」を論じるものではありません。「御旗本そのもの」を描き出したいと考えています。

 理由は,こうです。

 まず,第一に,上記のニ家については,私(柴田)自身が,両家の直系子孫の方を存じ上げており,なおかつ分量は少ないものの,御旗本家江戸屋敷の主人であった両家の古文書が残されていて,私が郷土史研究会の『研究紀要』や小著で発表している他には,研究が無い,ということがあげられます。

 大嶋陣屋石川氏(以後「旗本大嶋石川氏」とする)の場合,直系子孫の石川様は岐阜県で開業医をされており,今でも旧采地とのつながりを持ってみえます。私も大嶋で石川様ご家族とお会いしたり,岐阜のご自宅をお訪ねし史料を拝見し,また貴重な家伝を伺いました。

 ちなみに,後述しますが,旗本大嶋石川氏は伊勢龜山藩石川氏六万石の分家で,江戸時代には同族の大名家二家,旗本家三家とは養子縁組などで緊密な関係にありました。しかし現当主石川裕医学博士によれば,現在では,旧石川子爵家をはじめ,どの家のご子孫のお宅とも交流はないそうです。また,旧江戸幕府幕臣子孫の交流会「柳營会」の会員でもないそうです。

 

 一方,本宿陣屋柴田氏(以後「旗本本宿柴田氏」とする)は,越前太守柴田修理亮(実名勝家)の嫡流にあたる家です。全国に柴田勝家の子孫と称する家は多いですが,旗本本宿柴田氏が,正真正銘の直系子孫です。柴田様のお宅は,明治二十年代までは東京に留まりましたが,のちに旧采地參河国寶飯郡に移住され,そのため旧宝飯郡御津町→合併により豊川市にお住まいです。現ご当主柴田勝久氏は勝家公から十七代です。

 余談ですが当然,私の家の宗家にあたるわけですが,やはり平成になるまで,交流はありませんでした。

 豊川の宗家柴田様方も,私の家も「柳營会」には入会しておりません。

 柴田様方には,かなりの量の江戸屋敷の古文書が残っています。これは大変貴重な史料ですが,柴田様方は大身御家であった自家の歴史に全く関心がないそうで,それらの史料は,旧御津町に寄贈され,現在は豊川市所蔵となっています。この前行ったとき,無造作においてありましたので,少し心配です。

 元旗本柴田家文書には,「門外不出」とされていた家系図があります。私はまだよく見てはいないのですが,清和天皇以来の系図であり,特に織田信長公の歴史の新事実を発見できるかもしれません。今度,写真に撮って,早大の大先輩である静大名誉教授の小和田哲男博士に見ていただこうと思いながらも,なかなか果たせません。

 

 なお、柴田修理亮勝家の「家紋」についひとこと。

 最近,戦国時代ブームなのか,先日開通した「新東名」の「岡崎サービスエリア」にたちよりましたら,なみいる戦国武将の「家紋シール」の中に柴田勝家のものもあり、それはそれで嬉しかったのですが、みごとに間違っていました。

 実は元旗柴田家文書の中には,明治期に撮影された江戸時代の「御使番」の旗に描かれた家紋の写真が残されているのです。これを見ると,

 ①上下二羽のかりがねのうち,上のかりがねはくちばしを開いている。 

 ②上のかりがねの方があきらかに下のかりがねより細長い。

ことがわかります。私の家の家紋でも,輪が二重である他は,宗家の通りです。

この写真は,私のケータイの「書肆かりがねのブログ」に写真も載せてあるので,関心がある方はご覧になってみてください。